2015年秋季号
大いなる無駄遣い
マルコ福音書14章3節以下に記された、ナルドの香油を主イエスに注いだ、この女の行為は、常軌を逸していて、理解しがたいものがあります。ここに出てくる三百デナリオンは、当時のおよそ一年分の賃金に匹敵し、それ程高価な香油を、この女は使ってしまったのです。人々が彼女の行為を無駄遣いだと言うのもうなずけます。またユダヤ人にとって旧約の時代以来、貧しい人々に対する配慮は宗教的にも重要な義務でした。それゆえ周囲の非難は、それなりの正当性をもっていたと言えます。  この女性について聖書はただ「一人の女」とあるだけで、名前や主イエスとの関係等は記していません。貧しい生活の中で慎ましく生き、その中から少しずつ溜めてきた香油なのか、それとも高価な香油が買えるほど優雅だったのかは分かりません。いずれにしてもここで重要なことは、誰がそれをやったかではなくて高価なナルドの香油を主イエスに使っても惜しいとは思ってはいなかった、ということです。  ひるがえって私たちはどうでしょうか。神様を信じてさえいれば、そのような高価なものは必要ないという意見があるかも知れません。しかし現実には私たちもナルドの香油のような高級品を持つことによって、何か安心感のような「生きる保証」のようなものを、手に入れようとしているのではないでしょうか。  現代は空前のブランド・ブームだと言われています。有名ブランドショップが立ち並び、高額商品を買いあさっている姿があります。人々が目の色を変えてブランドを手に入れる姿と同様、この女にとっての「香油」は、彼女の人生を保証する確かさであったに違いありません。  しかし彼女は敢えてその壺を割って、高価な香油を主イエスの頭に注ぎました。主はその行為の奥にある、彼女の心をちゃんと見ておられるのです。すなわち三百デナリオンもする「高価なナルドの香油」も彼女自身が、所有しているだけでは何の意味も持たなくなっていたのです。他人には無駄遣いに見えても、壺を割って香油を主の頭に注ぐことなしには、彼女にとって本当の救いはなかったのでした。私たちの目には「高価なナルドの香油」しか映らないかも知れませんが、この女の目には香油を受けるにふさわしい、主イエスだけが映っていたのです。  人にはそれぞれ言い知れぬ辛い苦しみがあります。これまで彼女の苦しみを和らげたのは「ナルドの香油」というブランドであったことでしょう。しかし壼を割ったその瞬間から、もう自分の弱さを「香油」に託す必要は、なくなったのです。彼女は自分の人生すべてをこの時からイエス・キリストに委ねたのです。私たちもまた、それぞれが「ナルドの香油」の壼を抱えて、苦しみ悩んでいるかも知れません。しかしそうして、こだわり続けている自分の壼を一度壊して、後を神様に委ねてみてはどうでしょうか。そのとき今までとは全く違った、大きな喜びが与えられるのではないかと思うのです。

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