2015年春季号
教会創立132周年を迎えて
創立30周年を迎えた、東京教区千葉支区一教会の、記念誌への原稿依頼を受け、先日入稿致しました。その教会とのご縁は、遡ること28年前、生まれたばかりの同教会とその設立母体となった親教会の二つの教会におきまして、神学生としての夏期伝道実習をしたからです。あれから30年近く経って、まさか今さら原稿の依頼を受けるとは思いませんでしたが、その時代を振り返って懐かしくもあり、また恥ずかしい経験もたくさんしたけれども、今から思えば、一つ一つが良き学びと交わりだった気が致します。  考えてみますと、教会という「場」は、いつもそうなのかも知れません。青年時代にさんざんお世話になって、そのうち働き出すと、忙しさや距離の問題等で疎遠になり、やがてリタイアして時間的な余暇が出来ると、思い出したように懐かしい教会に再び戻ってくる。そういう信徒さんを今までたくさん見て来ました。そのこと自体を奨励するつもりはありません。しかし現実として、人は教会とくっついたり離れたり…、まるで磁石のような関係にも思えるのです。 「何十年ぶりに戻ってきたら、教会の皆さんが、あの時と同じように、礼拝を捧げている…懐かしい。」  そんな発言を伺ったことがありますが、いつの時代でも世紀を経ても、変わらず神さまへの礼拝に勤しむ「場」として、教会は在り続けてきたのです。  まもなく高輪教会は、創立132年を迎えます。前述した教会より100年以上昔から、この地で粛々と礼拝を捧げてきたのです。それはもちろん、懐かしさに裏打ちされてのことだからではありません。神さまと神の民とが出会う「場」における、愛と信仰の確認が、毎主日ごとになされてきたのです。  旧約の詩編150編に「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ」という聖句があります(6節)。人の創造の目的は、神さまを賛美するためにあります。だからこそ、私たちは神さまを礼拝するのです。  「こみち」がリニューアルされました。読者に少しでも読みやすい紙面を検討した結果だと思います。しかし全く新しくなったわけではありません。継続しつつ、進化するのです。それは「深化」と表現してよいかも知れません。教会も同じです。いつの時代でも教会は「深化」するのです。そのことを恐れず、まっすぐに主を見上げて参りましょう。

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