2017年夏季号
「 神の富 」
マタイによる福音書11章28~30節
主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。  休ませてあげよう」と語ります。私たちは皆、ある意味疲れています。疲れにはスポーツで 汗を流した後のような気持良いものもありますが、ここで問題になっているのは、ため息しか 出ないような疲れ、明るく前向きに生きていく力を奪うような疲れです。そうした疲れは、 しばしば人間関係から生じてきます。だからと言って人間関係を一切持たずに一人で生きていけるか というと、それは出来ません。けれどもその人間関係が私たちを疲れさせるのです。 主が言われた「休ませる」というのは、仕事等から一旦離れて休む、そしてリフレッシュされて 新たな気力と力を与えられて、再び働きに戻っていくことを意味している言葉です。 これは疲れの原因が取り除かれて疲れなくなり、身軽になって歩めるというのではありません。 この世を生きている限り私たちには疲れはあるし、重荷はなくならないのです。しかしそこに 「休み」が与えられる。それによって私たちは疲れを癒され、新しい力を与えられ、 もう一度疲れる人生の歩みへと重荷を背負って、歩み出していくことが出来る。そういう「休み」 を与えると主イエスは語りかけているのです。 キリストは約二千年前に地上に生きられた方です。今は天におられるわけですから、この地上の どこかへ行けば、キリストに会えるというものではありません。ではどうしたら私たちは 「わたしのもとに来なさい」と言われる主のもとに行くことができるのでしょうか。マタイによる 福音書の最後28章19節、20節に「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように 教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とあります。 私たちは主イエスをこの目で見ることはできません。しかしそれは逆に言えば、いつでもどこでも イエス・キリストと共に歩むことができるということです。主は目には見えない仕方で、 私たちと共にいて下さいます。それは何か「背後霊」のように、私たちのそばにいつも付いている というのではありません。そうではなく「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」 という約束が、私たちに与えられているのです。この約束は教会において礼拝を守り、 イエス・キリストの教えを常に新たに聞きながら歩むということにつながります。どこかの場所へ 行くのではなく、礼拝こそがイエス・キリストのもとに行くことであり、そこでイエス・キリストは、 私たちと共にいて下さるのです。世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいると約束して下さった キリストは今、礼拝で私たちに出会い、共に歩もうとしておられます。 そしてそこに、私たちにとってまことの安らぎがあるのです。

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