2018年夏季号
「 この人から出て行け 」
マルコ福音書5章1~20節
40年前のクリスマスイブ、私に洗礼を授けて下さった牧師は、当時70歳を越えた ご高齢の先生でした。この方があるとき、説教の冒頭で、こうお語りになりました。 「今朝は、皆さん全部にではなく、ここにおられる中のお一人のために、説教をさせていただきます!」。 聞いている人たちは、説教の最初に、そんなことを言われたものだから、一抹の不安を抱えながら説教を 聞いていたそうです。結局だれのことを指すのかわからず仕舞いだったようですが、このとき、 説教を聞いていた副牧師は、「誰のことかではなく、出席した人たちが、一様に、それは私のことではないかと思って、 熱心に聴いたということが重要だ」と言っておられました。  「説教」は、特定の人を対象にしてではなく、会衆全体に向けて語られるものです。 しかし、「みんな」に語られているはずの説教を、聴く側は「私を除いたみんな」と思っているのです。 それが「この中のお一人のために」と言われると、とたんに「それは、私のことではないか」と疑って、 目をパッチリ開けて説教を聴くようになった、ということなのでしょう。  今日の聖書で主イエスがなさった奇跡は「汚れた霊」に取りつかれた男の為になさった奇跡でした。 主イエスは、彼に敢えて名前を尋ね、この男を一人の人格を持った者として扱われました。残念ながら、 悪霊に取りつかれた男は「レギオン」と名乗るだけで、本名を名乗ることが出来ませんでしたが、 それでも主イエスは、この男を大切な一人の人として、見ておられるのです。「レギオン」には、「大勢」 という意味がありました。要するに十把一絡げの単位です。前述のエピソードと絡めて言えば、 特定の人を対象に語るのではなく、会衆全体に向かって語られる、という感じです。これもまた悪く言えば、十把一絡げです。  しかし、主イエスは違いました。この男に向かって、この一人の人のために、語られたのです。その時、 目をパッチリ開けて説教を聞くがごとくに、彼もまた主イエスの愛、神さまの愛に気づかされたのではないでしょうか。 「悪霊」が豚に乗り移ったというのは、その主イエスの気迫に負けて、「悪霊」が退散したと言ってもよいでしょう。 私たちは、神さまの前に胸を張って、自分の名前を正々堂々と名乗れるか?と言われれば、それほど堂々とは、 出来ないかも知れません。「汚れた霊に取りつかれた」というのは、悩み苦しみの中で、身動きが取れずにいる状態を 表しています。何かに捕らわれ、縛られ、神さまの前で、正々堂々と名乗ることがはばかれる、そんな状態です。  しかし主イエスは、そんな私たち一人ひとりに「名は何というのか」と、お尋ねになるのです。 そして、私たちは、そこで自分の名前を名乗って良いのです。正々堂々としていて良いのです。 それが神さまに愛される、ということです。

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