2019年春季号
「キリストの教え」
ルカ福音書8章4節~15節
「種を蒔く人のたとえ」において語られていることは、当時の人々が、身近に体験していた具体的なこ とです。私たちは、ここに出てくる「道端」や「石地」や「茨」そして「良い地」の中で、どれに該当するのか、 ということに思いを馳せます。そして、大概は「道端」や「石地」や「茨」のうちのどれか、もしくはその全部が 自分のことだと思いがちです。自分が「良い地」だと思っている人は、誰もいないでしょう。それは正しい感覚です。 しかしそのような私たちに、主イエスは、あなたがたは「良い地」だと、またあなたがたにおいて「御言葉」の種は 百倍の実を結ぶのだ、と語りかけておられます。ですからこの御言葉を聞き取るためには、発想の「転換」が求めら れます。自分がどのような人間で、「御言葉」をどのように聞き、どのように実践し、それによってどのような成果 をあげているかということに注目するならば、つまり結果としての「実り」ばかりを見つめるならば、そこに浮かび 上がるのは、「道端」、「石地」、「茨」にいる自分かも知れません。しかし私たちはその時、見つめるべきものを 間違えているのです。種が芽を出し育っていき、やがて「実」を結ぶのは、私たち人間の力によることではないのです。 もちろん人間は、一生懸命に畑を耕し、水や肥料をやり雑草を抜き、という作業をします。しかしそれは種が育って いく環境を、整えているだけのことであって人間の力によって「実」を造り出しているわけではないのです。どの ような「実り」が得られるかは、種によって既に決まっています。その種を私たちは自分で造り出すことはできません。 信仰もそれと似ています。信仰は私たちの中に、その種がもともとあって、私たちが努力して育てて「実」を結ばせる というものではなく、外から蒔かれるのです。そしてそれを蒔いて下さるのは、主イエス・キリストです。私たちが このたとえ話を読む時に本当にみつめるべきは、種を蒔く方である主イエス・キリストなのです。また主イエスが 蒔いて下さっている「御言葉」の種なのです。自分がどの土地かと、自分のことばかりを見つめるのではなく、 種を蒔いて下さっている主イエス・キリストと、主イエスが蒔いて下さっている「御言葉」という種に視線を向けて いく。そのような発想の転換が、必要です。その時、それまで見えなかった新しいことが見えてきます。「御言葉」 の種を、蒔き続けて下さっている主イエス・キリストの姿が、 見えてくるのです。

目次へ戻る