説教について

説教とは、御言葉の説き明かしです。よく聞かれる言葉だろうと思います。逆をいえば、御言葉の説き明かし以外は説教ではないということです。少々言い過ぎかもしれませんが、言い過ぎ位のほうが良いかもしれません。なぜなら、御言葉の説き明かしでないものを説教として聴かされた経験が多々あるからです。ちなみにここで言う説き明かしは、解説ではありません。み言葉の解説は、聖書研究です。聖書に親しむ集いで私が行っているのが、御言葉の解説です。聖書に親しむ集いでは、説教はしていません。ニュアンスの違いが伝わるでしょうか。あまり言葉としては好みではないのですが、メッセージ性があるかどうかという言い方がわかかりやすいかもしれません。解説も大事ですが、単なる聖書の解説にならないように気を付けて、説教の準備をしています。

 続いて、私の説教の一番最初の聞き手は私です。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ1123節)。私の説教を聴いて落ち込むようなことがあったとするならば、それはその前に私が落ち込んでいます。説教を聴いて喜びがあったなら、まず私が喜んでいます。私は、喜びは喜びとして語りますし、痛みは痛みとして語ります。説教準備中に、私が痛みを伴いながら聖書の言葉を聞いたときに、この痛みは教会の皆さんには感じてほしくないなと思うことがありますが、そこは、いや、私が痛んだのだから、皆さんにも痛んでもらおうと、そんな風に思い直したりします。何を言いたいかというと、私も説教準備をしながら一喜一憂しているのです。そこでは私も説教の聴き手になっているのです。

 最後に、説教には賞味期限があると考えています。説教を聴いてから、次の説教を聴くまでがその説教の賞味期限です。説教は、次の説教がなされたときに古くなります。古くなった説教は、捨てられても良いと私は思っています。もちろん、生涯残る説教というものもあるかもしれません。ただ、それを否定的に捉えるならば、その説教の後になされた説教が残っていないということになります。それは残念なことです。普通に聴いていれば積み重ねは必ずありますので、前の週の説教が、新しい説教がされた後に忘れ去られてもかまいません。ただ、新しい説教がされる前に忘れ去られてしまうのは残念です。最低一週間その新鮮さが保たれる説教準備を心掛けたいと思っています。そこには誘惑もあります。何とか一週間持たせるために、防腐剤のようなものを使ってしまう誘惑です。無添加でありつつ、最低一週間は新鮮さが保たれる説教が理想的です。そんなことを意識して説教を聴いていただくと、より良い説教者と聴き手の関係が構築されます。最近さらに説教準備が楽しくなっています。良い聴き手によって私はこれまで説教者として成長させられてきました。本当に感謝なことです。これからも共に、神に喜ばれる信仰者として成長してまいりましょう。