2023年夏号 2023年8月13日発行 第67号

          「標語」について思うこと

                            牧師 小林 信人


 高輪教会に限ったことではありませんが、年間の標語のようなものを掲げて歩みを進めて
いる教会は比較的多いような気がします。前任地の船橋教会もそうでした。
ただ個人的には、この、多くの教会で慣例的に行われている標語を掲げて歩むという歩みの
あり方に、何となくモヤモヤとした印象を持っています。

そのモヤモヤの原因は何かというと、教会はそういう標語を掲げて歩むものなのかという
事、教会の歩みに標語はふさわしくないのではないかという思いです。
なぜふさわしくないという印象があるかというと、どうも教会における標語が、どの教会
でもお飾りになっているような印象を持っているからです。

標語を持つならば、その時々に標語についての点検というか、例えば会社で標語を掲げて
いるとすると、恐らく、標語がどこまで達成できているかというような振り返りの作業が
度々行われるのではないかと思います。
一般的には標語というのはそうやって意味あるものになるというか、生かされるのだと
思います。
標語を掲げている教会は多々あるけれど、そういう事を行っている教会があるという話を
ほとんど聞いたことはありません。
しかも、ほとんど振り返りがなされないまま、次の新しい標語が掲げられていく。
標語は掲げることに意義があると、そういう理解であるならば、それも方法としてはある
かもしれませんが、そのような気持ちにはなれないというのが本音です。

忘れてはならないのは、標語を掲げるというのは、それは神の前でそれを誓っている
という事だという事です。
高輪教会は今年度「伝道する慰めの信仰共同体の形成」を目指して歩みますと、神さまの
前で宣言をしたのです。
そうであるならば「神さまいかがでしょうか。私たち高輪教会は伝道する慰めの信仰共同体
の形成に歩むことが出来ているでしょうか。私は個人として、日々そういう歩みをすること
が出来ているでしょうか。」そんなやりとりが神さまとの間でなされるべきです。
標語を掲げるとはそういう事です。

皆さん、この標語を掲げている教会の一員として、どれくらいの頻度でそういうやり取り
を神さまとなさっておられるでしょうか。私は度々そういう祈りを捧げています。
標語を掲げて歩んでいる教会の牧師として当然のことです。
ちなみに私は、ご批判をいただくかもしれませんが、私なりに点数をつけています。
今月の標語の達成度は○○点という具合にです。毎回比較的甘めの採点にしています。
80点を超えたことはありませんが、平均すると65点くらいでしょうか。

お飾りになるくらいならば、標語を掲げるのはや めたほうが良いでしょう。
それは、神さまにも失礼です。
長老会で、毎回長老の皆さんに、先月の点数を聞くのも良いかもしれません。
今年4月からの標語に対する皆さんの採点は何点ですか?お聞かせください。
というようなことを前任地でも言っていましたので、高輪でも。戻る