礼拝を捧げるという事

                            牧師 小林 信人

私たち信仰者の生活の中心は日曜日の礼拝です。
礼拝なくして信仰者の生活は有り得ません。当たり前のことです。
そう、信仰者が毎週の礼拝を捧げるのは当たり前のことなのです。しかも礼拝は、私たちが
捧げたいから捧げるのではありません。
こちらの思いはどうあれ、礼拝を捧げることを神さまは求めておられます。私たちが礼拝を
捧げたくなくても捧げるのが礼拝です。これも考えてみれば当たり前のことです。
しかし、この当たり前のことがどれくらいなされているか、そう簡単なことではないという
のが私たちの現実のような気がします。
むしろ、当たり前と思われることほど当たり前に実践するのは難しいことなのかもしれま
せん。
礼拝を捧げるという信仰者にとって当たり前のことを当たり前に実践することができない壁
のようなものが立ちはだかることがあります。
このことに労苦し、悩んでいる信仰者は少なくありません。その壁を神さまが取り去って
くださるよう祈るばかりです。
他方、礼拝を捧げることができないことに労苦し悩むことは悪いことではないとも言えます
。そこに労苦があり、悩みがあるという事は、礼拝を捧げることが出来ていない状況に労苦
し、悩んでいるという事だからです。
礼拝を捧げることができないことに労苦し、悩まなくなったらまずいです。礼拝を捧げなく
ても平気だという事になったらまずいです。ですから、礼拝を捧げられていない時には労苦
し悩んでください。神さまがその労苦や悩みに報いてくださると信じています。

礼拝は神の招きによって成り立つと私たちは考えます。
であれば、礼拝を捧げることが出来ていないという事は、その招きに応えることが出来て
いない、という事になります。悪い場合には、その招きを拒絶することもあるのが人間です
。私たちの弱さや罪を軽く考えないほうが良いでしょう。
礼拝を考えるときも、安きに流れることがあるのです。たとえそれが、礼拝を捧げるのが
当たり前と分かっている信仰者であったとしても、です。
残念ですが、私たちはそれほど神の前に優秀な生き物ではありません。少々の壁の前にたじ
ろぎ、「壁があるから致し方ないですよね神さま」と、多少の後ろめたさを感じながら礼拝
を捧げることが出来ていない自分を納得させるようなこともある私たちです。
本当にそれが乗り越えられない壁なのかどうか、本当に礼拝を欠席しなければならない事情
なのかどうか、慎重な祈りの決断が必要になるでしょう。
もちろん、何が何でも礼拝に出席しなければならないという事ではありません。
神さまが良しとされる事情や壁があります。「その事情ならば、その壁があるならば、私の
招きに応えることが出来なくても致し方ないね」と仰ってくださるお方です。
一方で同様に、「その事情や壁で礼拝を欠席するのはどうなんだろう」と、仰られるお方
でもあります。神さまは、どうすることも出来ない壁の前にたじろぎ、どうすることも出来
ない事情によって礼拝をお捧げ出来ない方の壁を取り払い、事情を解決してくださるお方で
あることを私は信じています。 

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2023年冬号 2023年12月10日発行 第68号