説教について(その2)
牧師 小林 信人
前回に引き続き、説教について記させていただきます。前回はどちらかというと、説教者の立場から、しかし説教者は一方で説教の聴き手であるということを記させていただきました。今回は、純粋に語り手として、どう説教について考えているか、どんな思いで説教の準備をし、語っているか、そんなことを記させていただきます。
多くの皆さんから、私の説教に関して分かりやすいというお声をいただきます。
とてもありがたいことです。そして、それこそが私が一番説教準備で意識していることです。
思い上がっているわけではありませんが、前任地でもそういう声を多くいただきました。しかし、その前の一番最初の任地では、あまりそういう声は聞かれませんでした。
遡って、神学生時代は、わかりやすいという声が聞かれました。つまり、流れを確認すると、私は神学生時代は比較的わかりやすい説教をしていたけれども、伝道者になってわかりやすさが一時後退し、しかし経験を重ねる中でまたわかりやすさを取り戻したということになります。
ちなみに、神学生時代の説教と、現在の説教は分かりやすいという点では同じかもしれませんが、その幅や深度はずいぶん違いがあります。20数年前の神学生時代の説教と、今の説教が同じであればそれはちょっと問題です。
私は、説教はまずわかりやすくなければならないと思っています。わかりにくい説教は、私は説教の体をなしていないとさえ思っています。で、ここからが大切なことなのですが、私が分かりやすいと言っていることを言い換えると、語り直すことができるという言い方になります。覚えやすいという言い方にもなります。私が説教準備で大切にしていることは、私の説教を聞いた人が、その説教を、覚えて誰かに伝えることができるかどうか、ということです。語り直すとはそういうことです。また、自分の説教を聞いた人が、誰かにその説教を語るということを前提として説教準備をしているという言い方にもなります。つまり、皆さんにはその作業をしていただきたいということでもあります。
たとえば、教会員のご夫婦で、どちらかが礼拝を休んでしまったとします。家に帰って、今日はどんな説教だった?と聞かれたときに、よく覚えていない、ではまずいのです。今日の説教はこうだった、ああだったと語り直すことができる、最低限それができる説教でありたいと、それを意識して準備をしています。また、それをしていただきたいと願っています。そういう会話がなされないクリスチャン夫婦はまずいでしょう。夫婦、家族だけではもちろんありません。礼拝で聞いた説教を伝える相手がいる、そんな伝道的なクリスチャンの歩みができれば理想的です。皆さんそういうことをなさっていますか?これが伝道です。これも伝道です。このことを意識すると、聞き方の意識も変わるかもしれません。
2024年夏号 2024年9月9日発行 第70号